上場企業における人的資本の情報開示が義務化されたことを背景に、自社の人事データを正しく管理し活用することの重要性が高まっています。
しかし、人事データをとりあえず集めたが、その後の効果的な分析ができずにいる企業がとても多いのではないでしょうか。
今回は、株式会社リクルートマネジメントソリューションズのHR Analytics & Technology Lab 所長である入江さんに取材を実施。
集めた人事データだけに頼るのではなく、科学的知見や実践知など多様な「エビデンス」を活用することが大事だと話す入江さんに、人的資本経営の実現可能性を高めるための人事データ活用術について詳しくお話を伺いました。
前編では、人事データを正しく活用するための「エビデンス・ベースド・マネジメント」の考え方やプロセスについてお聞きします。
入江 崇介(いりえ しゅうすけ)氏株式会社リクルートマネジメントソリューションズ
HR Analytics & Technology Lab 所長
2002年東京大学大学院総合文化研究科広域科学専攻にて修士課程(学術)修了後、新卒入社。アセスメント、トレーニング、組織開発の商品開発・研究に携わり、現在は人事データ活用や、そのための測定・解析技術の研究に従事する。一般社団法人ピープルアナリティクス&HRテクノロジー協会上席研究員。日本学術会議協力学術研究団体人材育成学会常任理事。昭和女子大学非常勤講師。
目次
拡大する「人事データ」の活用に向けた動き
ー本日はよろしくお願いします。早速ですが、現在多くの企業が「人事データを活用したい」と考え始めている背景について教えていただけますでしょうか。
入江氏:企業が人事データを使いたいと考えるタイミングは、大きく分けて2つのパターンがあると思っています。
1つ目は、そもそもの「見えない」「わからない」という状態を可視化するためです。特に大企業では、現場の1人1人にまでなかなか目が行き届きません。このような社員の状況を可視化するためにデータを使いたい、といったニーズがあると思います。
2つ目は、どのような施策を実施すれば良いか裏付けを取りたいと考える場合です。変化の激しい現代において、経験に頼るだけの対応が通用しなくなってきていることが背景にあるでしょう。
データとは「過去の蓄積」です。データを分析したものが、今の環境に必ず当てはまるわけではないとは思います。しかし「勘」だけで判断するのはもっと危険ですので、データを取りたいと考える方が増えています。
「人的資本経営」が人事データ活用の重要度を高めている
入江氏:これまでも「戦略人事」や「エンゲージメント向上」といったキーワードは注目されていましたので、人事データ活用に取り組む企業は存在していたと思います。しかし、「人的資本経営」というこれまでのキーワードを包括する概念が広まってきたことで、より人事データ活用への注目が高まっていると思います。
この人的資本経営においては、人的資本情報として人事データを開示する必要があります。ここで開示する内容は、「比較可能性」とともに「独自性」を示すことが求められます。
独自性のある取組・指標・目標 |
・ビジネスモデルや経営戦略との関連性、当該事項を重要だと考える理由、自社としての定義、進捗・達成度等の説明を重視し、開示 ・可能な場合は比較可能性も考慮 |
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比較可能性の観点から開示が期待される事項 | ・内外の基準を参考に、可能な限り自社の戦略やリスクマネジメントと紐づけて、開示 |
多くの企業では、まだ比較可能性の指標だけを開示してしまっており、独自性の指標が開示されていません。これからの開示においては「その企業がどういう風に成長していくのか」「その企業がどういう風に社会に貢献していくのか」といった内容を伝えていく必要があります。
そして、これを根底に人材戦略や育成戦略を立てるとするならば、それをどのようにモニタリングしていくか、といった部分までしっかり組み立てる必要があります。
「エビデンス≠データ」人事データに頼る危険性
人的資本経営を支える4つの「エビデンス」
ーありがとうございます。では、各企業が独自性のある指標を導き出すために重要なポイントとは、どのようなことでしょうか?
入江氏:独自性のある指標を導き出すために必要だと私が考えているのは、「エビデンス」に基づく人材マネジメントです。エビデンスとは「証拠」や「根拠」という意味ですが、次の4つから構成されます。
科学的知見 | 適切な手続きによって導き出された科学的知見 |
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専門家の実践知 | 経験や知見を積み重ねてきた実務家や実践家などの判断 |
組織の実態 | データなどで示される個々の組織の特徴 |
ステークホルダーの価値観・関心 | 従業員、経営者、株主など、意思決定の結果が影響を及ぼす対象の価値観や関心 |
多くの方が人事データとして考えている「組織の実態」も、エビデンスの1つです。そして重要なことは、この「組織の実態」に関するデータだけに頼るのはとても危険だということです。
たとえば従業員への意識調査の中で、「あなたは今の人事制度に満足しているか」といった質問と「あなたは今の人事制度を理解しているか」という内容を同時に聞き、回答に相関関係が見られたとします。この場合、人事制度への満足度と理解度に関する因果関係はどうなるでしょうか。
「人事制度への満足度が高いから、理解度が高い状態である」と考えることもできますし、「人事制度への理解度が高いため、満足度が高い状態である」と考えることもできると思います。しかし、どちらで意味付けをするかによって、打つべき人事施策は変わってくるでしょう。
人事データは科学的な手続きによって厳密に取れない場面も多く、このような物事のメカニズムがわかってない状態では、因果関係を正しく判断できない可能性があります。そのため「科学的知見」に従い、どちらがニワトリで、どちらがタマゴか、といったことを理解する必要があります。
また人事データを分析した結果、「エンゲージメント向上に関わる要素が20個以上ある」と分かった場合、どのように優先順位を付けるべきでしょうか。
優先順位を付けるためには、やはり自社の企業文化やカルチャーに併せて重視すべき指標を判断することになるため、「専門家の実践知」は重要ですし、「ステークホルダーの価値観・関心」を考えた施策を打つことが大事だと思います。
人事データの収集は「仮説ありき」で実施すべき
ーでは、具体的に人事データを収集する中で気を付けなければならないこととは、どのようなことでしょうか。
入江氏:まずデータを集めようとしすぎて、調査がすごく重くなってしまうケースはよく起こりがちですね。たとえばエンゲージメントサーベイも30項目程度であればまだ回答しやすいですが、200項目になったら大変でしょう。
しかも、それが半年ごとではなく、毎月やっている。また、人事に限らず様々な部署がアンケートを取り始めて、社内がサーベイだらけになってしまう。このような状況は、大手企業で特にあるのではないでしょうか。
このような状況で取得したデータから施策を考えても、そもそも正しい情報が取得できていないので失敗してしまうため、社員と対話をしながら良い施策にしていくことが求められます。
また、データを取得しただけで、実際のアクションに起こせないケースもよく見受けられます。データを取りっ放しで放置してしまったり、現状を把握した段階で良しとしてしまったりすると、現場に対して正しいフィードバックもきちんとできません。
ーデータを正しく人事施策に落とし込むには、どのようにすれば良いでしょうか。
入江氏:データを活用する目的や取得した後の行動までしっかり設計してからデータ収集すれば、過剰に情報を取ることは無くなります。また、データを分析した結果に基づいたアクションプランが想定できていれば、すぐに行動に移せます。
このような仮説ありきでのデータ収集が非常に重要です。どれぐらいの精度の仮説を置くかは悩ましいところはありますが、ある程度緩くてもきちんと置いておくことはやっぱり大事かなと思います。
そして、こういった仮説を作るためには、ステークホルダーや現場をしっかり見て、自分の会社のことをわかっておく必要があります。自分の会社の状況がわかっているからこそ、それが本当なのかデータを取得する流れですね。
このようなエビデンスを用いた経営をおこなうことを「エビデンス・ベースド・マネジメント」と言います。
「エビデンス・ベースド・マネジメント」のプロセス
ー「エビデンス・ベースド・マネジメント」とは、具体的にどのようなものでしょうか。
入江氏:厳密なプロセスでは次のように組まれており、このプロセスを進めることで良い成果を得る確率を高めることができます。
【エビデンス・ベースド・マネジメントのプロセス】
①問題の定式化(Asking)
:実務的な課題や問題を答えが出せる問いに翻訳する
②情報収集(Acquiring)
:体系的にエビデンスを探索し、取得する
③吟味(Appraising)
:エビデンスの信憑性や妥当性を徹底的に見極める
④統合(Aggregating)
:問いに答えるために、エビデンスを統合する
⑤適用(Applying)
:エビデンスを用いて意思決定を行う
⑥評価(Assessing)
:意思決定の成果を評価する
実態としてここまでしっかりやるケースは少ないかもしれません。しかし、先ほどもお話したように「①問題の定式化」で仮説を作ることは、次のアクションに繋がる部分なので大事です。
そして、「②情報収集」でエビデンスを取得します。ここでは、実際にどこまで体系的に取得できるかがポイントです。
たとえば社員にサーベイを取る際、数値だけでわからない部分はフリーテキストで聞いたり、直接インタビューを実施したりして、定量面と定性面の両方のエビデンスを探索する工夫はできると思います。
ただ、科学的知見や専門家の実践知なども含めた情報を収集できているかというと、そこまで手が回ってない企業も多いと思います。
次の「③吟味」でエビデンスの信憑性や妥当性を見極める際も、たとえばランダム化比較試験といった学術的なエビデンスとしても証明できるレベルで見極めをおこなうのは、なかなか難しいでしょう。
そのため、これまでの経験を踏まえた上で、サーベイで取得した結果が本当に正しいのか、普段の実感と数字の出方が違ければそれはなぜか、といったことをきちんと考えていくことは大事だと思います。
サーベイの質問項目の文言が少し違うだけで、結果が変わってしまう場合もあります。直感と違った結果はなぜ出てるのか、聞き方を変えたらどうなるか、と考える必要があると思います。
そして、もっともらしいと思える結果が出たら「④統合」で複数の評価軸を組み合わせた意思決定に繋げます。情報収集した中で、価値のあるものをきちんと使っていき、その上で「⑤適用」で意思決定をすることが大事です。
最後に、アクションを起こした後は「⑥評価」で成果に繋がったか確認し、PDCAを回して精度を高めていきます。
最近はHRテクノロジーが進化したことで「②情報収集」がしやすくなったと思います。そのため「③吟味」「④統合」に人事担当者の力を使えるようにしていく必要があります。
ー「①問題の定式化」について、なかなかできていない企業が多いと思います。筋の良い問いの立て方とは、どのようにすれば良いでしょうか。
入江氏:たとえば「エンゲージメントの向上」について問題の定式化をするなら、シンプルですが
- エンゲージメントを高める要因は何か
- エンゲージメントが高い/低いセグメントはどこにあるか
といった問いになると思います。
この問いを解くことで、エンゲージメント向上にとって関係性の強い要因に手を打つことができますし、エンゲージメントが高いセグメントと低いセグメントがわかれば、低いセグメントに対して注力して手を打つといった意思決定に繋げることができます。
また、エビデンスを集めることが目的化してしまうケースにも十分気を付けなければなりません。昨今は人的資本開示のために、とりあえず人事データを取ろうとする動きを良く見かけますが、これでは問いが曖昧な状態です。
企業としてのあるべき姿を描き、現在とあるべき姿のギャップを改善していく。そのために、人事担当者としてどうありたいのか、どういう風な人に会社にいて欲しいのか、といったことをきちんと考える。そうすれば、自ずと問いは出てくると思います。
(後編に続く)