こんにちは!HR NOTE編集長の根本です。
最近30歳になったのですが、周囲で結婚ラッシュが起きています。「こいつはまだ当分結婚はないだろう」と思っている友人が結婚すると、多大なショックを受けることがわかりました。
一方で、結婚なんぞどこ吹く風。仕事に打ち込みまくって起業をする知り合いも増えてきました。彼らを見ているとみんな輝いて見え、ちょっと差がつけられたように感じ、焦りのようなものも生まれてきます。
そんなわけで最近の精神状況は不安定となっておりますが、知り合いの起業家たちを見ていてふと、思いました。
「世の中の有名企業の創業者はいったい何歳で起業したのだろう・・・」
というわけで、今回はHR NOTE編集部にて古今東西の起業家の創業時の年齢と起業の経緯をまとめてみました。
目次
古今東西50社の有名企業の創業時の年齢を表にまとめてみた
今回は、HR NOTE編集部が独断と偏見で日本・海外の有名企業をピックアップしました。誰もが知っている大企業から、飛ぶ鳥を落とす勢いのスタートアップ企業まで、50社をご紹介します。
ここからさらに、以下のように4つに分けて、それぞれの設立経緯を調べたのでご紹介します。
- 1990年以前に設立した日本の企業14社の設立経緯
- 1990年以降に設立した日本の企業17社の設立経緯
- 1990年以前に設立した海外の有名企業9社の設立経緯
- 1990年以降に設立した海外の有名企業10社の設立経緯
1990年以前に設立した日本の企業14社の設立経緯
- 1889年9月23日:山内 房治郎/任天堂
- 1901年7月1日:光永 星郎/電通(日本広告)
- 1918年3月7日:松下 幸之助/パナソニック(松下電気器具製作所)
- 1926年11月:豊田 佐吉/トヨタグループ(豊田自動織機)
- 1946年5月7日:井深 大/ソニー(東京通信工業株式会社)
- 1946年10月:本田 宗一郎/HONDA(本田技研工業)
- 1952年12月:美土路 昌一/全日本空輸(ANA)
- 1959年4月:稲盛 和夫/京セラ
- 1960年:江副 浩正/リクルート(大学新聞広告社)
- 1973年7月23日:永守 重信/日本電産
- 1978年:安田 隆夫/ドン・キホーテ(泥棒市場)
- 1979年:孫 正義/ソフトバンクグループ(Unison World)
- 1984年4月:渡邉 美樹/ワタミ(渡美商事)
- 1988年2月5日:重田 康光/光通信
任天堂は、1889年に山内房治郎が京都市下京区の地にあった空き家を買い取り、花札の製造販売を始めたのが創業です。いまや世界的なコンピューターゲーム企業ですが、スタートは花札でした。山内氏は花札だけではなくトランプの製造も始め、山内氏が隠居する頃には日本一のプレイングカード会社となっていました。その後、業務用レジャーシステム、業務用ゲームシステムの開発・販売を経て、1981年には「ドンキーコング」、1983年には「ファミコン」、1985年に「スーパーマリオブラザーズ」など、長く愛されるコンテンツをつくり続けています。
光永氏は20代の時に新聞記者となり、日清戦争時には軍事記者として従軍しています。その際に通信手段の不備により書いた記事が大幅に遅れた経験から、正確で迅速なニュース報道の必要性を感じ、通信社の設立を構想するようになります。通信社の設立の実現に向けて、経営基盤を確立が必要だと感じた光永氏は、1901年に新聞社に広告を取り次ぐ広告代理店として、日本広告株式会社を設立。これが後に電通となり、日本を代表する広告会社となりました。
松下氏は、はじめはソケットの製造販売をおこなっていましたが、なかなか事業としてうまくいきませんでした。資金もなくなり、明日の生計さえおぼつかないほどの状況に陥り、一緒に頑張っていた仲間も去っていきました。そんなある日、ソケットではなく扇風機の碍盤1,000枚の注文を受け、大きな利益を得ることができました。意外な方向から運が開けた感動もあって、電気器具の考案製作を本格的にやりたいという想いが湧き上がり、松下電気器具製作所を創立したことがはじまりです。碍盤のほかに、最初につくった電気器具は「アタッチメントプラグ」で、その後の「2灯用差込みプラグ」とともに、松下電気器具製作所は新しい物を安くつくると評判になりました。
豊田氏は1885年に特許制度である「専売特許条例」が公布されたことをきっかけに、発明に対する志が芽生え、発明にのめりこむようになります。その中で豊田氏が発明した「無停止杼換式豊田自動織機(G型)」を製造販売するため、1926年11月に株式会社豊田自動織機製作所(現株式会社豊田自動織機)が創立され、ここからトヨタグループの歴史がはじまりました。豊田氏は数多くの特許を生み出しており、1985年特許庁により、日本の十大発明家のひとりに選出され、その功績をたたえられています。
井深氏は、独自の製品開発にこだわり、電子技術者として世界のソニーを築いた創業者です。早稲田大学理工学部在学中に発明した「走るネオン」がパリ万国博覧会において優秀発明賞を受賞するなど、若い頃から発明家として活動していました。戦時中には熱線誘導兵器の開発に取り組み、そこで知り合った盛田昭夫氏とともにソニーの前身である東京通信工業を創立。テープレコーダー、トランジスタラジオを発売し、多くの日本初、世界初という革新的な商品を生み出しています。
HONDAは、本田氏が静岡県浜松市で本田技術研究所を起業したことがはじまりです。もともと自動車修理工であった本田氏は、友人が所有していた旧陸軍の6号無線機発電用エンジンをたまたま目にする機会があり、「これを自転車用の補助動力に使おう」と思いたち、エンジンを改良し自転車に搭載した通称「バタバタ」を発売するに至ったことが経緯となります。その後、自転車用エンジンを搭載したカブF型を発売、1958年にはスーパーカブC100が発売され、これが世界的なベストセラーとなりました。
美土路氏は、全日本空輸初代社長、朝日新聞社社長を歴任したことで知られています。美土路氏は、早稲田大学を中退後、朝日新聞社に入社。入社後は第一次世界大戦に従軍し、上海、ニューヨーク特派員を経た後、編集局長、常務取締役と要職についた後、終戦前に朝日新聞を退社します。その後、敗戦で職を失われた航空関係者の救済組織「興民社」を創り、会長に就任。1952年、民間航空がGHQから認められるタイミングで、日本ヘリコプター輸送株式会社を設立して社長となり、極東航空と合併して1957年12月に全日空の初代社長に就任しています。
稲盛氏は、京セラならびにKDDIの設立者として、また「アメーバ経営」を創り出したことでも知られる日本を代表する経営者です。
稲盛氏は1955年鹿児島大学工学部を卒業後、京都の碍子メーカーである松風工業に就職。松風工業を3年で退社した後、自ら開発したファインセラミックスの技術を核に、社員7人で京都セラミック(現京セラ)を設立しました。1969年には創業12年という異例のスピードで大阪証券取引所に株式上場しています。
また1984年には、電気通信事業の自由化に即応して、第二電電企画株式会社を設立、会長に就任。DDI、KDD、IDOの合併により2000年10月にKDDIを設立しています。さらに2010年2月より、JAL(日本航空)の会長に就任。代表取締役会長を経て、名誉会長、名誉顧問となっています。
大学在学中に財団法人東京大学新聞社で企業向けの営業を覚えた江副氏は、大学が発行する新聞の広告代理店「大学新聞広告社」を設立。これがリクルートの前身となります。そこから、自分たちの責任で編集・発行ができる媒体を持ちたいと考え、後のリクルートブックの前身でもある、一冊丸ごと求人広告だけの本「企業への招待」を発刊。就職先を自分の意思で選ぶという価値を市場に提案した最初のメディアで、それまでは推薦・縁故採用が中心であった日本の就活のあり方を大きく改革したと言われています。1969年には、「企業への招待」は「リクルートブック」へと誌名変更しています。
「世界一になる!」この思いのもと、社員4名、小さなプレハブ小屋から日本電産はスタートしたとのことです。日本電産は現在、世界中にグループ企業約230社を擁しており「世界No.1の総合モーターメーカー」となっています。永守氏は将来、モーターの技術者になりたいと考え、高校、大学と進む過程で、一貫してモーターを研究しました。その後、ティアックという会社に就職し、同社子会社である山科精器の取締役を経て、1973年に日本電産を設立しています。
安田氏は慶應義塾大学卒業後、不動産会社に勤務したが倒産。1978年にドン・キホーテの前身である「泥棒市場」をオープン。1989年には、東京都府中市にドン・キホーテ第1号店を開業しました。店舗創業以来、一度も業績を落とすことなく、現在まで増収増益の連続成長を続けています。「圧縮陳列」「深夜営業」「手書きPOP」が特徴で、ところ狭しと品を積み上げる圧縮陳列や、迷路やジャングルのような導線により、買い物客に楽しさを与え、滞留時間を長くしています。
19歳で実業家になると決意し、その開業資金を発明で儲けようと考えた孫氏は、1日ひとつ、1年間発明し続けることを自分に課しました。結果、考案された「音声機能付き多言語翻訳機」をシャープへ売り込み、成功。そこで約1億円を手にします。この資金を元手に1979年、アメリカでソフトウェア開発会社「Unison World」を設立しました。これがソフトバンクの前身で、今では日本を代表する企業となっています。
渡邉は大学卒業後は経理会社にて半年勤務した後、佐川急便でセールスドライバーとして1年間従事。起業のための資金300万円を1年間で稼ぎ、1984年に渡美商事を設立。経営不振のつぼ八の店舗を買い取る形で、フランチャイズ店オーナーとなりました。1987年に社名をワタミフードサービスと改称し、1992年には自社ブランドの新業態として、1号店居食屋「和民」笹塚店を出店。今では国内に約580店舗を出店するまでに成長しています。
重田氏は、1988年2月に光通信を創業しました。当初は第二電電(現KDDI)の代理店として事業をスタートし、NO1代理店になります。その後も多くの企業の代理店としてNO1のポジションを獲得していきます。その後、携帯電話やPHSの爆発的普及期に事業の中心を携帯販売事業へ変更させ、急激な企業成長へと発展していきます。34歳の時には史上最年少で1999年に東証一部に上場。その年に重田氏は世界第5位の大富豪として、米国経済誌『フォーブス』の表紙を飾りました。
1990年以降に設立した日本の企業17社の設立経緯
- 1996年4月:堀江 貴文/ライブドア(オン・ザ・エッヂ)
- 1997年2月7日:三木谷 浩史/楽天(エム・ディー・エム)
- 1997年8月8日:高須 賀宣/サイボウズ
- 1998年3月18日:藤田 晋/サイバーエージェント
- 1999年3月4日:南場 智子/DeNA
- 1999年6月3日:笠原 健治/ミクシィ(イー・マーキュリー)
- 1999年11月:亀山 敬司/DMM.COM
- 2006年2月8日:村上 太一/リブセンス
- 2007年6月11日:寺田 親弘/Sansan
- 2008年4月:秋好 陽介/ランサーズ(リート)
- 2008年10月1日:馬場 功淳/コロプラ
- 2010年9月:仲 暁子/ウォンテッドリー(フューエル)
- 2012年6月15日:鈴木 健/スマートニュース
- 2012年7月:佐々木 大輔/freee
- 2012年11月14日:福島 良典/グノシー
- 2013年2月1日:山田 進太郎/メルカリ
- 2014年1月8日:重松 大輔/スペースマーケット
堀江氏は、東京大学在学時にWEBのホームページ作成のアルバイトをしていました。当時は最先端であったパソコンの技術を学んだ後、大学在学中にオン・ザ・エッヂを設立し、その後大学を中退しています。大学にはあまり通っておらず、雀荘や、カラオケに入り浸っていたようです。インターネットが普及しはじめたタイミングに、いち早くホームページ制作・管理を行う会社として注目を集め、一流企業や有名アーティストのサイト制作を請負、急速に成長していきました。その後、2002年に経営破綻したライブドア社から営業権を取得し、ライブドアとして事業を開始しています。
三木谷氏は一橋大学を卒業し、日本興業銀行(現みずほ銀行)に入行しました。1993年にMBAを取得後、ソフトバンクの孫正義氏、TSUTAYAの増田宗昭氏を顧客にM&Aの斡旋を担当しています。ターニングポイントは1995年の阪神・淡路大震災で、故郷が被災したことが人生観に大きな影響を与え、間もなく起業を決意します。コンサルティング会社のクリムゾングループの設立を経て、「インターネットで人は物を買わない」と言われた1997年2月に株式会社エム・ディー・エム(現 楽天)を設立。ここから「楽天市場」が誕生しました。創業時は、従業員6名、13店舗でスタートしています。
高須氏は広島工業大学を卒業後、松下電工(パナソニック電工)へ入社。ネットワークエンジニアとして、社内評価NO1のポジションを獲得。その後、社内ベンチャー制度を利用しヴィ・インターネットオペレーションズを設立。翌年の1997年8月、現社長の青野氏と取締役の畑氏と、愛媛県松山市でサイボウズを設立しました。事務所は2DKのマンション。しかも、その一室は畑氏の住まいとのことでした。今では『サイボウズOffice』や『Garoon』などのグループウェアソフトはアクティブユーザー数600万人にのぼり、9年連続で業界トップシェアを維持し続けています。
藤田氏は青山大学に進学し、当時は起業の志もなく麻雀が大好きで、授業もあまり出ておらず、留年も経験しています。起業を意識し始めたのは、30代前半の社長の会社でアルバイトをしているときでした。自分と10歳程度しか年の変わらない人が社長業をしている姿を間近で見ているうちに、「自分にもできるのでは?」という想いが出てきたとのことです。その後、新卒でインテリジェンスに入社し、1年後に現サイバーエージェント副社長の日高氏とアルバイト1名で、当時インテリジェンス社長の宇野氏から1000万円の出資をしてもらい、起業をしました。それがインターネット広告やアメブロ、AbemaTVなどの新しいサービスを生み出しているサイバーエージェントのはじまりとなります。
南場氏は、津田塾大学卒業後、マッキンゼーに入社。その後、マッキンゼーを退職し、ハーバード・ビジネス・スクールに入学、MBAを取得しています。その後マッキンゼーに戻り、34歳の時には日本人女性として歴代3人目となるパートナー(共同経営者)に抜擢。しかし、南場氏は「実際の現場で商売をしたい!」という想いが強くなっていき、ITビジネスに目をつけ、1999年に株式会社ディー・エヌ・エーを設立し、起業しました。今では日本最大級のメガベンチャー企業となり、引き続き成長を続けています。
日本で大ブームを引き起こした日本国内最大のSNS『mixi』を生み出した笠原氏は、東京大学に在学中に在籍していたゼミで勉強していくうちにアップルのスティーブ・ジョブスやマイクロソフトのビルゲイツに衝撃を受けました。そこから独学でWEBの勉強に没頭し、1997年に求人サイト「FindJob!」を立ち上げました。大学を卒業する頃、当時はまだインターネット企業は少なく、「それなら自分で作ろう」と起業を決意。1999年にイー・マーキュリー(現ミクシィ)を設立しました。2004年に日本国内では最も早く展開したSNSである『mixi』を開設し、2006年には商号をイー・マーキュリーからミクシィへ変更。同年9月に東証マザーズへ上場を果たしました。
もともとは1980年代後半にレンタルビデオ店を開業したところからスタートしています。そこからアダルトビデオの版権ビジネスなどで事業を拡大し、1998年ネット配信事業を開始。そこから、1999年11月に石川県加賀市にDMMの前身であるデジタルメディアマートを設立しました。その後急成長を続け、2009年にサービスを開始したFX事業を皮切りにオンラインゲーム事業、英会話事業、3Dプリント事業、モバイル事業、ロボット事業など様々な分野の事業を手掛け、2015年にはアフリカでの新事業もスタートさせています。
村上氏は、小学生の頃「将来は社長になる」と決意し、高校時代から起業のための準備をはじめていました。早稲田大学に進学後、大学在学中の2006年2月に株式会社リブセンスを設立。4月よりアルバイト情報を掲載するウェブサイト「ジョブセンス」を開設しました。リブセンスは創業2年目に黒字化し、2011年12月7日には東証マザーズに上場。さらに2012年10月には、東証一部に市場変更。村上氏が東証マザーズ上場したときの年齢は25歳1か月であり、自社株を公開した史上最年少の経営者となりました。
寺田氏は、子供の頃から起業家を目指しており、グローバルなビジネス経験を積むため総合商社に就職しました。そこで、寺田氏自身が感じていた課題感からアイデアが生まれ、Sansanの事業である名刺管理ビジネスを、社会人1年目ですでに企画書にしていました。総合商社では、シリコンバレーにてアメリカ最先端ベンチャー起業の日本向けビジネス展開を担当。帰国後は、自らが持ち帰ったデータベースソフトウェアの輸入販売を、社内ベンチャーとして立ち上げました。そうしたグローバル・ビジネスの経験を経た後、名刺管理ビジネスを事業とし、4人の仲間と共にSansan株式会社を創業しました。
秋好氏は、大学生のころには学生ベンチャーとして活動。大阪にいながら東京のクライアントから仕事を請けてフリーランスのような働き方をしていました。新卒でニフティに入社し、他社に発注する立場を経験。仕事の受託・発注、両方の立場を経験したことから、個人と法人のマッチングサービスを思い立ち、2008年4月にランサーズの前身であるリートを創業しました。12月には、クラウドソーシングサービス「Lancers」の提供を開始しています。
馬場氏は、高専から九州工業大学に編入のち大学院に進み、KLabでアルバイトをしながら、位置情報を利用したゲームを個人として開発。自身もゲームマスターとしてプレイしながら昼はIT会社員として勤務、夜は携帯電話アプリ「コロニーな生活」を馬場氏一人で運営する生活を2003年から2008年の5年間し続けます。しかし、ユーザーが増加し続け、個人として運営していくのは限界に感じ、コロプラを立ち上げ、起業しました。
京都大学在学中に起業サークルでホームページの制作会社を立ち上げたり、学内フリーペーパーの発行をしたりと精力的に活動。大学卒業後はゴールドマン・サックス証券に入社。退職後、FacebookJapanに初期メンバーとして参画。Facebookに携わり、SNSを使った面白いサービスを作って、それで食べていきたいという気持ちから、2010年9月にウォンテッドリーの前身であるフューエルを設立し、ビジネスSNS「Wantedly」を開発、2012年2月にサービスをリリースしました。
鈴木氏は慶應義塾大学卒業後、東京大学にて博士課程を修了し、東京大学特任研究員という肩書きもお持ちです。2004年に新しいニュースの仕組みをつくろうと考えはじめ、その後、共同創業者の浜本氏と出会い、2011年に「Crowsnest(クロウズネスト)」というニュースリーダーをリリース。「パーソナライズされたニュース」というコンセプトではじめたが、ユーザーの反応が鈍く、その反省を活かして、世の中一般の人が知りたいと思うゼネラルニュースのスマートニュースが誕生しました。鈴木氏は2012年6月にスマートニュース(創業時の社名はゴクロ)を共同創業者として立ち上げました。
一橋大学在学時にマクロミルにインターン。契約社員としてリサーチ集計システムや新しいマーケティングリサーチ手法を開発。大学卒業後は博報堂にて、マーケティングプランナーとしてクライアントへのマーケティング戦略の立案に従事しました。その後、投資アナリストを経て、株式会社ALBERTの執行役員に就任。2008年にGoogleに参画し、中小企業セグメントにおけるアジアでのGoogle のビジネスおよび組織の拡大を推進しています。そこから中小企業をテクノロジー化し、中小企業を応援したいという発想からfreeeが生まれました。
福島氏は東京大学大学院に在学中、情報キュレーションサービス「Gunosy(グノシー) 」を3人で開発。2011年11月からサービスを開始し、大学院卒業後の2012年の11月に株式会社Gunosyを設立しました。開発した3人で話していたときに、「最近SNSとか疲れるよね?」という話になり、「じゃあ、疲れないものを作るか」というのがきっかけで、そこから2ヶ月程度で開発したとのことです。
山田氏は早稲田大学在学中に、楽天にインターンをしており、楽天オークションの立上げなどを経験。卒業後、フリーでインターネットビジネスの仕事をしながら経験を積み、2004年に一人で渡米。2005年に帰国して、株式会社ウノウを設立。2010年にウノウをZyngaに売却し、2012年にZynga Japanを退社。日本から世界で使われるインターネット・サービスを自分の手で創りたいという想いが強くなり、2013年2月1日に株式会社メルカリを設立しました。その年の12月にはフリマアプリ「メルカリ」は100万ダウンロードに到達しており、今では日本唯一のユニコーン企業と言われています。
重松氏は早稲田大学卒業後、NTT東日本に入社。その後、当時10数名の株式会社フォトクリエイトに参画。 新規事業、広報、採用に従事。フォトクリエイトの上場後は自分の事業を立ち上げることを決意し、ビジネスのアイデアを練る日々が続きます。重松氏の奥様も相談役となっており、色々なアイディアを奥様に話していく中、ふっとひらめいた貸しスペースのアイデアを伝えたところ、「いけるよ!」となり、2014年1月、全国の貸しスペースをマッチングする株式会社スペースマーケットを創業しました。
1990年以前に設立した海外の有名企業9社の設立経緯
- 1854年:ルイ・ヴィトン/ルイ・ヴィトン
- 1923年10月:ウォルト・ディズニー/The Walt Disney Company
- 1938年:李秉喆李秉喆(イ・ビョンチョル)/サムスン
- 1952年:カーネル・サンダース/KFC Corporation
- 1963年:フィル・ナイト ビル・バウワーマン/NIKE
- 1971年:ハワード・シュルツ/スターバックス・コーポレーション(イル・ジョルナーレ社)
- 1975年4月4日:ビル・ゲイツ/Microsoft
- 1976年4月1日:スティーブ・ジョブズ/Apple
- 1984年:マイケル・デル/DELL
ルイ・ヴィトンはフランスのスーツケース職人で、もともとヴィトン社は「グリ・トリアノン・キャンバス」というトランク工場として創設されました。そこから1854年に世界初となる旅行用鞄の専門店をパリに創業。1867年には万国博覧会で銅メダルを獲得し、これにより世界的な評判を得ることに成功します。1892年にヴィトン社はハンドバッグの販売を開始し、トランクやハンドバッグなどが掲載された最初のカタログもリリースされました。その年の2月27日、ルイは自宅で息を引き取り、息子のジョルジュが会社を引き継ぎ、ルイ・ヴィトンのブランドをさらに高めていくことになります。
ウォルト・ディズニーははじめに漫画家を目指していましたが、うまくいかずにアニメーターとして雇用され働くことになります。そこでアニメーターとしての資質に目覚め、作品づくりに没頭。1920年に独立して個人事務所を設立。仕事が順調に舞い込むようになってきたものの、制作に没頭する余りに資金のやり繰りが乱雑になり、最終的にスタジオは倒産。倒産後の整理を終えたウォルトは再起を図って映画産業の本場ハリウッドへと移住します。ハリウッドでは兄のロイ・ディズニーと共にカンザス時代に一本だけ制作した「アリスの不思議の国」シリーズの続編商品を販売する会社「ディズニー・ブラザーズ社」設立。事業の過程でアリスシリーズのアニメを再度制作する機会を得たウォルトは以前の様にアニメーター仲間を集め、ディズニー・ブラザーズ社はアニメ製作会社へと転進していきます。これが実質的な「ディズニー社」の設立となります。その後に「ミッキー・マウス」が生まれ、1955年にはカリフォルニアでディズニーランドを開設。現在に至っています。
李秉喆が早稲田大学中退後、友人2人と1万円ずつ出資し設立し、協同精米所の事業をおこなうも失敗。その後1938年3月1日に設立した三星商会が今日のサムスングループのはじまりといわれています。サムスンは60年間にわたって、その次代に必要であった製糖、纎維、電子、航空及び機械、化学、大型船舶製作、金融など多方面の事業を展開してきています。今では韓国最大の財閥となり国を支えています。
カーネル・サンダースはケンタッキー州に生まれました。1930年にガソリンスタンドの経営をはじめ、一角に物置を改造した6席のレストラン・コーナー「サンダース・カフェ」をオープン。その目玉商品がフライドチキンでした。その後ガソリンスタンドは倒産、カフェも火災で焼失してしまいます。その後もカーネルは何度も復帰を試みますが、最終的には負債を抱えて店舗経営から身を引くこととなります。しかし60歳を超えてからも諦めることなく、1952年にはフランチャイズビジネスをはじめます。これが成功を収めることとなり、このときに「ケンタッキー・フライドチキン」(KFC)というブランドが生まれ、今でもカーネルはKFCのイメージキャラクターとして存在しています。
フィル・ナイトはオレゴン大学を卒業後にスタンフォード大学のビジネススクールに入学。オレゴン大学時代は将来を嘱望されたランナーでした。ナイトがビジネスとして選んだ製品は自らの競技種目に深く関わったスポーツ用のシューズでした。シューズの製造メーカーを探すために日本を訪れ、そこでオニツカタイガー(現アシックス)の工場を見つけ、シューズを供給してくれるように説得。その後、1963年にオレゴン大学の陸上コーチであったビル・バウワーマンとともにナイキの前身であるブルーリボンスポーツ社を設立し、競技用シューズの販売をおこないます。1971年には社名をナイキに変更し、現在では多くの人が知っている大企業へと成長しました。
シュルツは、29歳のときにスターバックスにマーケティング責任者として入社します。翌年、イタリアを訪れたシュルツは、街のあちこちにある小さなエスプレッソバーに感銘を受け、カフェをつくることを提案します。しかし、当時のスターバックスはコーヒー豆を売るだけで、その望みは叶いませんでした。そこでシュルツは退社し、自らコーヒー店「イル・ジョルナーレ」を立ち上げます。そして2年後の1987年に、不振に陥っていたスターバックスを買収。それまでのコーヒー豆販売という業態を一新し、現在のカフェスタイルとしての店舗展開を始め、現在に至っています。
ビル・ゲイツはコンピュータに興味を持ち、高校生のときには、ポール・アレンとともにトラフォデータ社を創業し、州政府に交通量計測システムを納品したり、COBOLでの給与計算システムの作成を手伝ったりしていました。Microsoftは、ハーバード大学に在学していた19歳の時、ポール・アレンとともに設立しました。その後「Windows」を発売し広く受け入れられ、市場の圧倒的多数を占めるまでのシェアを獲得しています。また「Microsoft Office」やWebブラウザ「Internet Explorer」なども広く浸透しており、Microsoftはソフトウェアメーカーとしては世界一の企業に成長し、ビル・ゲイツは個人資産世界一を誇っています。
ジョブズは1976年にヒューレット・パッカードでインターンシップ中であった、スティーブ・ウォズニアックと出会い、マイクロコンピュータ「Apple I」を開発しました。Apple Iを大量生産して販売しようと考えたジョブズは、ベンチャーキャピタルの紹介により企業家のマイク・マークラとともにアップルコンピュータを設立・法人化したことがはじまりです。1984年には初代「Macintosh」を発売しますが、ジョブズは需要予測を大幅に誤り、それが原因で退職に追い込まれます。その後、ジョブズは「ピクサー・アニメーション・スタジオ」と業務用コンピュータの開発製造をおこなう「NeXT」を設立します。そして、1996年には業績不振に陥っていたアップル社にNeXTを売却し、コンサルタントとして復帰。その後は、「iMac」「iTunes」「iPod」「iPhone」と新しい製品を生み出す世界を代表する企業となりました。
DELLは1984年、デルがわずか19歳のころに1,000ドルの資金を元手に学生寮の自室でコンピュータ会社「PC’s Limited」を起業したことがはじまりです。デルはその年に大学を中退し、経営に注力します。「販売店を介さず、注文生産の製品を直接顧客に提供する」という業界初の直販制度を採用し急成長を遂げ、1988年には24歳の若さでナスダックに株式公開。同年に社名を「デル・コンピュータ」とあらため、2003年に社名を「デル」に改名しています。1992年にはフォーチュン500入りとなり、デルはフォーチュン500社中最も若い経営者になりました。
1990年以降に設立した海外の有名企業10社の設立経緯
- 1994年:ジェフ・ベゾス/Amazon
- 1998年9月4日:ラリー・ペイジ/Google
- 1999年3月:ジャック・マー/アリババ
- 2000年1月:李彦宏/Baidu
- 2004年2月4日:マーク・ザッカーバーグ/Facebook
- 2009年3月:トラビス・カラニック/Uber Technologies
- 2008年8月:ジョー・ゲビア/Air bnb
- 2010年3月:ケヴィン・シストロム/Instagram
- 2011年9月1日:エヴァン・スピーゲル/Snapchat
- 2013年8月:スチュワート・バターフィールド/Slack
ベゾスはプリンストン大学に進学し、コンピューターサイエンスと電気工学の学位を修得。在学中はプログラミングやハッキング没頭していたそうです。大学卒業後、スタートアップの金融系のIT企業に11番目の社員として入社し、トレーディング・システムの構築に従事。その後ヘッジファンドに移籍し、シニア・ヴァイス・プレジデントへと昇進。しかし、1994年春にインターネットの利用率が増加していることに気付き退職。ベゾスには eコマース事業が将来的に大きなビジネスチャンスになると考え、1994年にAmazonの前身となるインターネット書店のCadabra.comを設立。翌年7月にAmazon.com として正式にスタートし、1997年5月には株式公開を果たします。
ラリー・ペイジは6歳の頃からコンピュータに興味を持ちはじめました。その後、ミシガン大学で計算機工学を専攻し、1995年に学士号を取得。卒業後、スタンフォード大学計算機科学の博士課程に進学し、WEBリンク構造、人間とコンピュータの相互作用、検索エンジン、情報アクセスインタフェースの拡張性、データマイニング手法などを研究していきます。在学中にセルゲイ・ブリンと出会い、「大規模なハイパーテキスト的なウェブ検索エンジンに関する解剖」という内容の論文を共著で執筆。修士号を取得した後、1998年にGoogleを共同設立しました。
ジャック・マーは大学卒業後、杭州電子工業大学で英語教師として働きながら、友人とともに翻訳会社を設立。2年間で杭州及び浙江省で最大の翻訳会社となります。1995年、通訳の関係で行ったアメリカで初めて、ソーシャルネットワークに触れ、インターネットサイトとつくろうと決意します。そこから24人の友人を集めて意見交換をしたところ、23人は強く反対しましたが、決意は揺るぎませんでした。そこから、中国初のビジネス情報発信サイト「中国イエローページ」を開設。その後、中国国際電子商務中心に所属し、1999年に退職。その年に、杭州に研究開発センターを設立。9月にアリババネットを創業します。そしてアリババは、世界最大級のサイトに成長しました。
李は北京大学卒業後、ニューヨーク州立大学でコンピューターサイエンス修士取得。卒業後は、「ウォールストリート・ジャーナル」の発行元であるダウ・ジョーンズや、Infoseekにて勤務。Infoseekでは検索エンジンの設計を担当しました。その後、「多くの人が恩恵を受け、多くの人が使いたいと思う検索サービスを提供したい」という想いのもと、1999年に起業を決意。2000年1月にベンチャーキャピタルから120万ドル融資を受けてシリコンバレーより帰国し、Baiduを設立。2005年には同社をナスダック上場へと導いています。
ザッカーバーグは、ハーバード大学在学中に「Coursematch(コースマッチ)」をつくり、同じクラスを履修している他の学生のリストを参照できるようにしました。後に「Facemash.com(フェイスマシュ.com)」を開設。ハッキングをして得た女子学生の身分証明写真をインターネット上に公開し、公開した女子学生の顔を比べて勝ち抜き投票させるというサイトです。しかし不正アクセスがばれ、すぐに閉鎖となってしまいます。このことがきっかけとなり、ザッカーバーグは2004年にFacebookを立ち上げ、現在に至ります。大学は休学し、その1年後に中退しています。
トラビスはカリフォルニア大学ロサンゼルス校でコンピューターエンジニアリングを専攻。ネットワークサービスScour社やRed Swoosh社を創業しますが、投資家や大手企業から2,500億ドルの訴訟を起こされる、共同創業者に裏切られるなど、うまくいかないことが続きます。10年間、自分に給与は払えず、食事はカップラーメンという日々が続いたそうです。その後Red Swoosh社を買収し、2009年3月にギャレット・キャンプとウーバーを創業します。「サンフランシスコで日頃タクシーがまったくつかまらなかった」ことがきっかけとのことです。
美術大学の卒業後、ゲビアは、ブライアン・チェスキーと一緒にサンフランシスコに移り住みます。移り住んだものの家賃を払うお金がないというときに「サンフランシスコで国際デザインカンファレスがあるが、近隣のホテルはみんな満室」という情報を知り、カンファレンスの参加者たちに朝食と泊まるところを提供することを思いつき、「エアベッド&朝食」のウェブサイト「airbedandbreakfast.com」を公開しました。カンファレンスが行われる間、3人の参加者と部屋で一緒に暮らしたとのことです。ここから「誰かの家を3クリックで予約できる」Airbnbのサービスが生まれていくことになります。
ケビンは、2歳の頃からプログラミングに興味を抱いていたという話があります。そこからは写真に興味をもち、写真の勉強のためイタリアに留学。その後、Twitterの前身であるOdeoでインターンとして働き、Googleに就職します。GmailやGoogle Readerなどの開発に従事。その後、2010年にマイクロソフトでインターン経験のあるマイク・クリーガーと共にInstagramを設立しました。そのわずか15か月後の2012年に、会社をFacebookへ10億ドルで売却しています。
Snapchatのアイデアは、スタンフォード大学における授業でおこなわれたプロジェクトで生まれました。しかし、クラスメイトは非永久的な写真のアイデア難色を示しました。その後、2011年の9月にスピーゲルの父親のリビングルームでSnapchatを立ち上げました。
そこからスピーゲルは最も若い億万長者となり、アメリカの女優ミランダ・カーと婚約をしました。まさにアメリカンドリームを体現しています。
スチュワートはケンブリッジ大学で哲学の修士号を取得した後、ゲーム制作会社「ルディコープ」を共同創業します。同社から生まれた写真共有サービス「フリッカー」のヒットを受けて、同社をヤフーに売却。2013年にチャットアプリのSlackを設立します。2009年にTiny Speckを立ち上げ、Glitchというゲーム作りに没頭しますが、うまくいかず、ゲーム制作中に使用していた社内用のチャットツールを商品化したのがSlackです。スチュワートはもともとゲームを作りたかったのですが、その過程で使っていた技術を応用することでSlackもフリッカーも誕生したとのことです。
最後に
いかがでしたでしょうか。
こうしてみると、20代~30代で起業した方が多く見受けられる印象ですね。偉大な経営者はもともと学生時代から優秀な方が多いように感じますが、プレハブから起業したり、負債を抱えたり、周囲から認められなかったりなど、普通は諦めてしまうような困難が立ちはだかっても、それを乗り越えて成功をつかみとっている方もいます。
新しいサービスを生み出したいという意欲が高く、今注目されている、やり抜く力「Grit」も高いレベルで持ち合わせているように感じました。偉大な方々のように、世の中にインパクトを与えるサービスを提供できるよう、さらに精進してやり抜いていきたいと思います。